室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応したことから守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君としたことで足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。佐竹氏は鎌倉府の重鎮として活躍し、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。
しかし、佐竹氏宗家の第11代当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第12代当主となると、佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く山入氏はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。山入氏が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こしたこと、さらには、名目上傘下にあったものの実際には独立勢力であった大掾氏や那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあったことから、佐竹氏の勢力基盤は脆弱であったと言える。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。
戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜が現れ、山入氏を討ち、常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。
佐竹義舜の曾孫で、佐竹氏第18代当主の佐竹義重は「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に、佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県下都賀郡藤岡町)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。
しかし、佐竹義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の佐竹義宣の時代には豊臣秀吉の小田原の役に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。水戸城の江戸重通は小田原の役に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。
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慶長5年(1600年)、佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月には義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが、5月になると義宣は出羽国(後の羽後国)久保田(現在の秋田県秋田市)20万5800石(実高40万石)に減封の上で国替えを命じられる。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。